「長崎さるく博」が成功したのは (3)まち歩きの充実感

まちを歩くと、気持ちよい。なぜだろう。小さな旅だという人がいる。近所の横丁を歩いてみても新しい発見があるとよくいわれる。そのとおりだけれど、私がこの言い草になんとなく反発を感じる(しかし「さるく博」でも「知らなかった長崎の発見」なんて言ってきた、ごめん)のは、自宅の家の中だって、庭だって時々新しい発見はあるし(キッチンなんかすべて知らなかった我が家だ)、書物を読めば、映画を見れば、人と話をすれば必ず発見はあり、発見なんていたるところにあるので、わざわざまち歩きをする必要はない、と思うからだ。まち歩きには、もっと別の気持ちよさがある。

「まち」は公共(パブリック)の場である。そこを私(プライベート)が気ままに歩く。まちはパブリックとプライベートが融合するところといってよい。ところが、日本の現代社会では、一般にパブリックとプライベートが隔絶されている。たとえば、学校は完全にパブリックな場で、会社もそうで、駅も、電車内も、病院も、私が気ままに振舞うことなんか許されない。私の人生の中でかろうじてプライベートを楽しめるのは自分の家庭内だけである(不幸なことに、自宅でもプライベートが許されない場合も多い。ベランダに追いやられてタバコを吸う亭主を蛍族と言うそうだ)。ところが、人間はプライベートに生きている。いや、そう生きたい。幸せだって、喜びだって、悲しみだって、理不尽だって、プライベートなものだから。

「まち」という、パブリックとプライベートが融合するところではどうだろう。軍隊の行進のように画一的に歩くなら(これをグライヒシャルツング=強制的画一化という)、そこにプライベートな要素はない。そんな極端なことはないが、大声で叫びながら歩くことも、座り込むことも許されていないし、なにより現代の「まち」は通行機能が最優先されて、滞りなく移動できることばかり考えられているから、プライベートが入り込む隙間があまりない。路上で歌うことも、絵を描くことも、制限される(危険でもある)。芸を演じることもままならない(排除される)。かろうじて許されているのは、おしゃれして歩くことと、おしゃべりして歩くことである。ファッションというプライベートな楽しみは「まち」というパブリックな場がないと成立しない。会話はどこでもできるが会話しながら歩くのは「まち」でしかできない。ファッションとおしゃべりというプライベートな領域が、「歩く」という行為のよって「まち」では保障される。日常生活でこんな楽しいことはない。「まち歩き」は、「まち」というパブリックな場にプライベートを目いっぱい持ち込むことのできる行為なのだ。

「まち」をグイッと自分の方に引き寄せるやり方がほかにあるだろうか。道路を暴走する行為がある。電車で座りこんだり、座席で化粧をする好意がある。路上でタバコをふかしたり、酔っ払ってヨタヨタ歩くやり方もある。しかしいずれも「反社会的行為」と呼ばれてパブリックからは歓迎されない。「まち歩き」だけが、まち歩きのファッションとおしゃべりが社会的に認められた行為だと言える。

パブリックでプライベートを表現することは、社会が自分のもののようになった気がして気持ちがいい。この気持ちのよさは他の場では味わえない充実感だ。ステージというパブリックの場で歌う歌手のようだ。スタジアムというパブリックの場で観客に見つめられてプレーする野球やサッカーの選手のようなものだ。パブリックをプライベートへ引き寄せている。「まち歩き」をすると「まち」が自分のものになったようで気持ちがいい。とくに、ガイド役で先導して歩くと、自分が主役になったようでうれしい。日本の都市で忘れがちになっていた(なにしろ管理優先だから)パブリックな場でのプライベートな表現が「まち歩き」で取り返せるのは、「まち歩き」の隠れた効用だと私はひそかに喜んでいる(ほんとはこれがまち歩きの本質なのだ)。この後は、「まち歩き」がファッションと握手したり、気ままなパレードをしたり、道端に花を植えたり、いたるところで写生が出現したり、大通りをジョギングしたり、公園で発声練習をしたり、そんなプライベートをワンサカと実現していくことで「まち」はもっと魅力的になる。「まち歩き」は、そんなプライベートを充実させる「まち」への第一歩にすぎない。

*こんなことに興味のある人はニューヨークの「ニューヨークマラソン」や「イースターのパレード」について調べてみてほしい。

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