「長崎さるく博」が成功したのは (1)合意の形成

長崎では、市民の代表と市の観光部署とがこれまで盛んに議論してきたらしい。テーマは「まち歩き」による長崎観光の再生である。なぜ「まち歩き」に至ったのかを、彼らの発言から私なりに推測してみると次のようになる。まず、大きな集客装置(パビリオンのようなもの)をつくって観光客を集めるのは‘いやだ’。‘いやだ’というのは‘もうこりごりだ’という意味で、過去に長崎で2度やった大型イベント「長崎旅博」と「日蘭400周年」をさしているらしい。この2つのイベントは、それなりに成功していると、私は理解していたので意外だった。前者は94日間の囲い込み博覧会で190万人の入場者を得ている。後者はイベント型で300万人の参加者を集めた。市民に何が不満なのかというと、「おいしいところを東京のプロにごそっと浚われて、地元はこき使われて後に何も残っていない」と、厳しい表現だけど実際はもっと激しい言葉で罵る人が多かった。だから「あんなやり方は二度とやりたくない」ということになって、「あんなやり方」でないとすると消去法で「まち歩き」しか残らなくなる。感覚的にだけれど、市民の頭には、パビリオンはダメ、遊園地はダメ、パンダもいらない、芸人ではしゃぎたくない・・・というようなイメージが充満していて、裏返すと、自分たちの長崎というまちはそんなものに頼らなくても十分たのしくやっていける(はずである)という自負が見える。

ここで、当初、私の目の前の現れた「市民」 を説明しておかなければならない。「まち歩き」に熱くこだわった市民は、長崎に住んでいて何何長や何何代表をやっているあの名望家たちではなかった。なにしろ長崎が好きで、だから一言言いたくて、その前に自分でなにか始めている、そんな市民であった。長崎では「のぼせもん」というそうだけれど、どのまちにもこのような人たちが存在することは知っている。祭りになったら神輿を担ぎ、盆踊りの櫓に登りたくって仕方がない人たちである。であるが、長崎ののぼせもんは一味違っていた。彼らは、相当な理論家であった 。誰もが「なぜ、まち歩きなのか」を滔々と語る。長崎がそれにふさわしい事物を抱えていること、歩きにくい坂段を逆手にとること、歩けば知らなかったことがいっぱい出てくること。結論は「だから、歩かねばならない」というところまで、後に私は100人を超える「市民」にインタビューする機会を得たのだけれど、ほとんどの人が確信を持って語ったのにはおどろいた。

つまり、この程度までに、長崎では「まち歩き」が理論武装されていた。ここのところが他の「ウォーキング」とは、根本的に違っていることに気づいていただきたい。日本に「ウォーキング」は山ほどあるが、そのほとんどは名所や旧跡をめぐって歩くことに終始している。なぜ歩くのかと聞けば「名所があるから」というのがその答えだろう。ためしに、あなたのまちの観光案内にある「ウォーキングコース」なるものをじっくりみてごらん。名物や名所をたどって線で結んでいるだけのはずである。長崎の「まち歩き」は、名所旧跡の点よりそれを含む「まち」に意味があって、のぼせもんたちはその意味を語ることに「まち歩き」の意義を見出している。長崎の「まち歩き」は「めぐり」ではない。「まち」「歩き」なのだ。こんなことが、ごく自然に、私が長崎を最初に訪問した時点で、「市民」に合意されていた。これって、ひょっとすると、日本の「まち」と「市民」の革命的な合意じゃないかしら、なんて考えたね。ベルグソンの時間だっけ? ベンヤミンのパサージュ論だっけ? なぜか日本の都市に欠けているものが見つかったような(日本の都市には市民ではなく町民ばかりいるからね)、そんな大げさな気がして、こんな具合に合意が形成されている仕事を、引き受けないなんて、名が廃る。わたしにとってはイベントプロデュース稼業の理想のまたその上を行くようなことで、やっと観音様がウィンクしてくださった、「ほんとにやるんだよね」なんて、おそるおそる清水の舞台から飛び降りてみるかという気になった。

 

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