長崎にとって「市民主体」とは

 「長崎さるく博」は、囲い込み型でパビリオンを見て歩く博覧会とは違います。あえて言えば長崎の町が会場で、居留地や出島や丸山がそのままパビリオンになります。ホンモノの生きたまちそのものを「歩いて(さるいて)見てもらう」のがこの「博」の手法です。近頃ではこの手法は特に目新しいとは言えなくなりました。事始めは1993年の「アーバンリゾートフェア神戸’93」ですが、いまではあちらこちらで採用されています。ただし、10年前といまとで決定的に違うことは、「市民主体」を徹底させることです。この「徹底」を意識したのは、今度の「長崎さるく博」がはじめてのことといえるでしょう。このことはコメント氏の書いておられるように「超保守的な長崎市民」を相手にしてかなり危険な、つまり失敗しやすいことだともいえます。このようなイベントは失敗すると目も当てられません。でも、しかし、「長崎さるく博」は「徹底的に市民主体」でなければならないのです。
 その理由を書きます。
 「長崎さるく博」はまちづくりのイベントです。観光による集客は、市民内需と市外からの外需ともに、長崎経済の根幹ですから、長崎経済のイベントといってもよいでしょう。このあたりのことはすでに幾度となく書きましたからおわかりのことと思います。まちづくりであれ、地域経済であれ、それを継続的に維持していく(はやりの言葉で言うとサステイナブルである)ためには、その主役を市民が担うのは当然です。
 長崎市民は自らの生活を豊かな(おカネでも、ゆとりでも、遊びでもよいのです)ものにしようと毎日頑張っていますが、長崎はそれを実現しやすいまちになっていなければなりません。もっとありていに言うと、商売人やサリーマンには売上が伸びるまちに、主婦や子供には住んでいて楽しいまちに、そしてすべての市民が自慢のできるまちになることです。学校や病院や道路や下水が整備されているとかということ(シビルミニマムと呼ばれてきました)以上に「住んでいて気分がよいか」ということ(生活の質)に力点が置かれていることに注意してください。長崎はそんなまちにならなければならないのです。これは、長崎に限らずあらゆるこれからの都市のまちづくりの要件です。それを、長崎は長崎流に達成しようというのです。
 「長崎さるく博」は、その目的を達成するための「手段」です。この手段を利用するのは、誰でもない「市民」なんです。商売人は儲ける。サラリーマンは職場の気分がよい。できれば給料が上がる(これは必ずしも長崎だけでは解決できませんが)。誰にとっても住んでいて楽しい。このまちに生まれてよかった。このまちで死んでいきたいと思う。これが理想です。こんなことを真正面から狙ってみようというのが「長崎さるく博」です。
 こうなると「市民」は言葉の上で主体であるとか、ないとかではなく、主人公は市民以外に考えられないではないですか。行政(長崎市)が幸せになるってどんなことかわかりませんが、あなたが幸せになるってことはよくわかります。「市民主体を徹底する」とは、口先で「市民、市民」ということではなく、市民が自分の利益(おカネでも、ココロでも)のために積極的に自分のまちにかかわっていくことです。今回は、行政は「一杯食わす」ほどの重要な役割を担っていません。そのかわりに、市民がじぶんでやらなければならないのです。
 このことは大変なことで、「うまくいくかどうかは、のるかそるかだね」といってくれたジャーナリストがいます。
コメント氏のように「もっと、商業者の人たちの中へ」とアドバイスしてくださる方も多くいます。その通りです。私もすでに100人近い商業者、事業者の方々とお会いしました。行政の方々は後回しです。そして「長崎ならきっとうまくいく」というのが私の答えです。そのことを、次回は書きます。
 

 

Leave a Reply