「市民主体」とは

 前稿から1ヶ月経ってしまいました。もちろん「長崎」が多忙で、ブロッグを書き進める時間がなかったのです。この間、前稿に対して「長崎市民は超保守的だし、行政には何度となく一杯食わされていますから」というコメントをいただきました。実は、前稿で「長崎さるく博のやり方に重要なポイントがある」と書きましたが、それはまさに「市民」に関することなので、ここで少し長文になりますが、市民に対する私の考えを書きます。
 「長崎さるく博」は「すべて市民が企画し、実行し、もたらされる利益は市民が享受する」ということをプロデュースの基本方針としています。この方針の受け取り方は人それぞれですが、自治体をあげての大型イベントを何度か経験された方は、一様に「またか」という印象を持たれたに違いありません。
 いままでの地方の「○○祭」や「○○博」では、ほとんどすべての基本計画書に「市民参加」「市民主体」ということが書かれています。市民が中心になってやりますということです。この言葉はいかにも「民主的」な印象を与えるので、為政者や議員のみなさんは大好きな言葉です。市民にしても反対する理由は見つかりません。ましてや、財政困難な折、行政と市民との「協働」が強調されてきたこともあって、「市民主体」は大流行しています。しかし、実際に市民がすべてやってしまうイベントがどれほど実現したでしょうか。小規模なものには、市民が手作りで立ち上げて実施しているイベントが数多く生まれていることは、よく知っています。それらは何人かの市民の熱意に支えられて地域に生き生きとした息づかいをもたらしていることも知っています。私自身それらをいくつも指導してきました。しかし、少し大きな規模になると、あるいは、手作り規模のものが大きく拡大すると、なぜかそこにイベントのプロが介在してきてビジネスとしてイベントを請け負うということが多くなるのです。その結果、「○○博」というような規模のイベントは、企画の当初からプロの手で作成され、業者がプロとして実施する場合が多くなります。もちろんその企画書にも「市民主体」と書かれていますが、市民はプロが実施したイベントの観客として動員されるだけという結果になります。そして、イベントの成功・不成功は観客を何人獲得したかというまるで興行イベントのような物差しがまかり通っています。
 そこで、市民からは「あのイベントは俺たちには関係ない」「行政が勝手にやっていることだ」という声が上がり、コメント氏の言われるように「一杯食わされた」ということになるのでしょう。現実に私が手がけた「囲い込み型の博覧会」では、会場内は人であふれて大賑わいなのにフェンスの外はしらけているというのが当然の姿でした。TDSやUFJの近くの商店街が大繁盛といったことは聞いたことがありません。長崎でも同様な博覧会がありましたが、市中の商店街が蚊帳の外だったであろうことは用意に想像できます。そこで「なにが市民主体だ」「行政に一杯食わされた」ということになり、今回でも「またか」となるのでしょう。
 ところが、行政の立場で考えてみると、町を元気づけるにはワッと盛り上がらなければならず、そのためには大型イベントだということになり、それが成功するためには東京からプロを呼んできて、確実に集客しなければなりません。「市民が何をしてくれますか」「結局は行政任せでしょう」ということになります。その結果、いままで地方で実施された「○○博」クラスのイベントで、失敗したと公的に評価されたものは、たとえ何十億円の赤字を出してもひとつもありません。
 さて、長崎はどの道を選ぶべきか。この続きはすぐに書きます。

Leave a Reply