さるく―長崎流都市観光の仕組み

 「都市の記憶」は、その都市を歩いてみるとよくわかります。
 16世紀半ば、交易と布教のために日本にやってきたイエズス会のポルトガル人たちは、当初、平戸に拠点を置いていましたが、やがてそれを長崎に移したのでした。その理由は、平戸の松浦氏と布教上の不一致があったといわれていますが、平戸に比べて長崎が良港だったこともあるのでしょう。長崎の戦国領主だった長崎甚左衛門は、大村忠純の家臣でしたが、永禄6年(1563)、主従そろってキリスト教に入信しています。その大村氏、長崎氏が、ポルトガル人が目をつけた長崎浦を彼らに提供し、こうしてただの寒村が一大貿易港として歩み始めることになるのです(元亀元年1570)。ポルトガル人は日本にもうひとつのマカオを建設しようとしたらしいんです。ところがその7年後、反キリスト派の野母半島(長崎の南)の深堀氏、諫早の西郷氏が連合して長崎を攻めました。大村・長崎氏は軍事力では劣っていますので、それならと、長崎をイエズス会に寄進してしまったのです。イエズス会の軍事力で長崎を守ろうとしたのです。天正8年・1580年のことです。その7年後、全国を統一した秀吉はキリスト教の禁制を布令し、長崎の教会領を認めず、直轄地にしました。
 これが、長崎という都市の始まりです。この数奇な運命を持つ都市は、たった7年間とはいえ、キリスト教会の領土となったこともありました。そんな歴史を持つ都市が日本にありますか。長崎は異国情緒のまちといわれますが、まさに一度は異国だったのです。その後、出島を特別区としてポルトガルとの交易が認められますが、禁制をやぶったとかでポルトガル人が追放され、交代に平戸にいたオランダ人が出島に移され、中国人が唐人屋敷に集められ・・・・・・いま、復原された出島を歩き、南山手の小高い丘へ石畳を登ると「これがポルトガル人の選んだ長崎浦か」と、それ以来、「南蛮の風物」を運んだ外国船が往き通った長崎湾を、眼下に見下ろし、やがて幕末の開港でアメリカ、イギリスの船が競って交易を求め、それに伴って輸入された思想と武器が明治維新を導いてゆく、そんな長崎の記憶が思い起こされるでしょう。
 このような都市の記憶を、いくつものコースに分割して、思い入れたっぷりなガイドさんの解説で、訪れる人に楽しんでもらうことにしました。これが「長崎さるく」です。(つづく)

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