市民主体の観光は可能か

 市民主体の観光は可能か。これは、とても変なタイトルです。そもそも観光というのは、出かけるのも、受け入れるのも市民がやる行為であって、行政がしゃしゃり出るものであはりません。ところが、観光客を受け入れる行為に、近頃は、なんだかんだと行政が表に出てくるのです。いわく、観光行政、観光による地域の活性化です。観光客でにぎわっていたり地域の行事が活発だと、地域政治がうまく行っているということになるのでしょうか。もっとも、観光の重要性についてはこのシリーズで何度も書いてきましたから、お分かりいただけましたよね。
 しかし、その行為の主体はあくまでも市民であることを強調しておきたいと思います。自動車やコンピューターの産業地域で、商業集積の繁華街で、その主体は企業や事業者や市民であるのと同じことで、観光もその地域の企業や事業者や市民なんです。ところが、観光は巻き込む人があまりにも多いんですね。その都市、その地域の観光とは、受け入れを考える場合、全市民、全町民がかかわるといっても過言じゃないでしょう。そこで、ついつい行政の登場ということになってしまいます。
 ここで大きな問題が生じます。なんでも行政頼みになってしまうことです。観光客が少なくなると、行政がうまくやっていないらからだという行政批判になります。しかし、その地域の歴史や景観や風物は行政がとやかく言えるものではありません。観光客が望むその土地らしい雰囲気も市民が醸し出すもので、行政がことさら手を加えるものではありません。行政がでしゃばると「○○市民まつり」のように自己満足のかたまりになりかねないのです。夏になると、あちらこちらで行政主催花火大会が行われます。あわせて共同でやればもっと豪華な花火がたのしめるのにとお勧めしても実現しません。
 さて、そんな行政主体の観光から脱して、市民主体の観光を模索する動きがでてきました。第一、行政の財政に余裕がなくなってきました。第二に、これからの観光は「その地域に市民自身が魅力をつけてゆく」ことが大切になってきたからです。たとえば都市観光にしても、その都市の市民が楽しんでいないのに、外からやってきた者が楽しめるわけないでしょう、というごく当然の考え方が出てきたからです。そうですよね、ニューヨーク観光に行くのは、最初は自由の女神とエンパイアステートビル。でもその後はブロードウエイにグリニッジ、リンカーンセンターにモダンアートという具合に、これらはニューヨーク市民が楽しんでいるものなんです。パリでもローマでも、リピーターには食事が楽しみです。このように考えるのは、大阪の観光ではUSJよりもミナミのネオンサイン街を大切にしなきゃと思うんですがね。京都は金閣寺や清水寺も重要だけど、先斗町や上七軒のお茶屋がもっと楽しめたらね。神戸は、神戸はもっと「地力」をつけなくっちゃね。
 それにはなにより市民の意識と行動が肝心ということになってきます。自分たちの観光を、自分たちで考える意識と自分たちでやる行動です。そんなことが可能なことでしょうか。そこで、「長崎の挑戦」が始まります。(これで、シリーズ「観光を考える」をひとまず終わって、このあとは「長崎の挑戦」に受け継ぎます。長崎市が観光でとりくむ「挑戦」をわたしなりに報告してゆきます)

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