Archive for November, 2008

11月11日、心中天の網島から始まった〜「大阪あそ歩」の見本

Friday, November 14th, 2008

 11月11日は旧暦の10月14日。近松門左衛門の浄瑠璃本「心中天の網島」に描かれたふたり、紙屋治兵衛と紀ノ国屋遊女小春がまさに心中を遂げたその日に、その場所である都島の大長寺で、「大阪あそ歩」の記念すべき立ち上げ企画を挙行した。久しぶりに現場ではりきったから‘挙行した’という感じがぴったりとする。この企画、思いついた最初は、心中の現場を探して、さらにふたりが遺書を残した大長寺の本堂をお借りして「天の網島」を解説して、墓前に花を手向けるというような内容であったが、調べていくうちにその昔の大長寺の敷地は藤田伝三郎男爵の旧邸になり、いまは大阪市の公園になっていることがわかったり、近松を何度読んでも「なぜふたりが心中しなければならなかったのか」の疑問に取り憑かれたり、現在の歌舞伎狂言が近松半二や菅専助による改作だということがわかったり、昭和になって川田順の「老いらくの恋」が絡んだりで、こんなにおもろい話やったん?とあらためて近松の偉大さに気づいた。だれか大学の先生にでも解説を頼もうと思っていたけれど、こんなドラマチックな話をドラマチックに(しかもノーギャラで)話てくれそうな人を思いつかなかったので、私・茶谷幸治がしゃしゃり出て自分でやることにした。こうなると解説ではなく「語り」をやろう、そう決心した。  なにも目立ちたかったのではない。「大阪あそ歩」は、まず、おもしろくなければならぬ。その一発目の企画で「おもろない」ことをやってしまっては、出足で足を挫いたマラソンのようなもので、ここはなんとか見本を(手本ではない)を示さねばならない。ひょっとこのお面を被ろうとも腹に筆絵を描こうとも、なんとしてでも大向うに「ああ、おもろかった」と言わせねばならない。つまり悲壮な覚悟というやつである。結果は、そこそこうまくいった。「妓が情けの底深き・・」という出だしを義太夫風に練習もした。昔の蜆川(曽根崎川)の写真も用意した。陸奥くんに拍子木まで打たせた。冷や汗ものであるが、反応は上出来で、参集してくれた70名近い人々(募集は50名だった)は感涙に咽んだはずだ(驚いて聞き入ったことはまちがいない)。ありがとう、理解ある参加者のみなさん。大学の先生や学生さん、ひごろのお付き合いのある女性たちが(平日の昼間は多くの人が働いていてやってこれない)後押ししてくれた。あとから、いくつかの反響ももらった。  「大阪あそ歩」の、これが見本であるぞよ、諸君。‖膾紊砲泙弔錣蠅弔「おもろい話」を軸に展開しよう。まち歩きだってそうだ、歩くだけなら犬でもできる。「へえ、そんな話がありましたん?ここで」が大阪あそ歩の第一である。∨槓の現場を体験しよう。「ここや、これや」が重要で、「天の網島」も現場を歩いて、大長寺のその日にやるからおもしろい。ご住持がほんまに読経して回向し、ひとりずつ焼香して比翼塚に手を合わせるなんて、不思議な光景やったけど、ほんものの凄みがある。おもしろく語ろう。学校の講義やない。啓蒙でもない。「おもろい大阪」をおもしろく語り、歩き、楽しむ。それにプロの技はいらない。「聞いてほしい」という思いだけで十分である。語りの練習なんかいらない。自分もいっしょに楽しむ練習をしてほしい。  「心中天の網島・大長寺」の企画でわかったこと。,海鵑箆辰魍擇靴澆燭い箸いΔ劼箸いっぱいいるということ。呼びかければ、平日の真昼間でも都心を離れた都島のお寺に集まってくれるということ。△海里笋衒でいくと、「まち歩き」も「まち遊び」も渾然一体となって盛り上がるということ。これを、大阪流の「まち歩き+まち遊び」の一つのモデルパターンにしたいな。大阪なら、できるかな。H駘僂麓益者負担が原則ということ。お寺へのお礼も、お花代も、資料代も、参加費ですべてまかなえた。参加費を少し大きくすれば、将来のキャストギャラも出るだろう。こうして、大阪に語り部がまたひとり増えていく。私の書いた台本は無料提供するから、来年はだれかやってくれ。大長寺さんも協力してくれはるはずや。   まあ、うまくいってよかった。「こんなおもしろい企画、どうしてもっとPRしてくれはれへんの。私も知らんかったけど、友達に聞いて」と言ってくれた若い女性参加者の言葉が嬉しかった。そのうちだんだん広がりますよって、気長にお付き合いを(手作りの企画なのに、おカネかけて立派なチラシつくって、というやり方は似合わないでしょ。地道に、ちょっとずつ、やります。そのうちに・・・・)  

「大阪あそ歩」始めます

Monday, November 3rd, 2008

 コミュニティ・ツーリズムって何やねんと、よく聞かれます。簡単に言うと、まちやヒトの魅力で人々をひきつける観光のことです。海遊館もUSJも大阪城もいいけれど、ミナミはもちろん鶴橋も九条も住吉もおもろいですよ、そこの人間があたたかいですよ、いらっしゃい、ということです。「まちを勝手に歩け」というのも愛想がないので、おいしいものやめずらしものをご案内したり、ご披露したりする、そんな観光のことです。「それは観光ではなくてツーリズムという」という固いことがお好きな学者もいますが、それはどうでもよろしい。なんと言おうと、おもろいまちが一番や。  東京にはこんなおもろいまちはそうありません。銀座、新宿、六本木といっても建物が立派で集客量が多いだけ。日本橋、浅草、上野もいまやなんだかすましてばかりいます。その点、大阪には六本木ヒルズやお台場はなくっても、初めて会っても百年の知己のような人柄がどのまちにもうじゃうじゃおられます。大阪はまちがごちゃごちゃしていると言われます。ごちゃごちゃしているのではない、人間とまちが溶け合っているのです。そんなまちだから松下幸之助さんも司馬遼太郎さんも世に出られたのではありませんか。ヒューマニティとバイタリティ(人情味と活力)、これちゃいますか、大阪は。しかし、一歩行き過ぎると、コテコテになり、怖いになります。これは自戒しなければなりません。  さて、そんな大阪のまちの楽しさをしっかりと楽しむ。楽しみ尽くす。これが「大阪あそ歩」です。     

「大阪あそ歩」始めます

Monday, November 3rd, 2008

 大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会のチーフプロデューサーになってしまいました。大阪市と大阪商工会議所と大阪観光コンベンション協会と来年開催される「水都大阪2009」というイベントの実行委員会の4者が母体になってこの協議会が生まれました。難産だったと聞いています。何で難産だったのか、私にはわかりませんが、大阪で「コミュニティ・ツーリズム」の研究を重ねてきた橋爪教授や栗本さんや母倉氏は異口同音に「やっとできて感慨無量」とまで表現します。そのチーフプロデュサーに、横からやってきた私が突然なってしまったものだから、多少気が引けるのですが、橋爪さんには総合プロデューサーになってもらったし、みなさんの納得もついているようだから、「それじゃ」ということで、引き受けました。  私は「長崎さるく博」のあとは、何にもしたくないと自適を楽しんでいたのですが、こうなってしまいました。長崎の仕事だって57歳で「これが最後」と観念して引き受けたことは、本にも書きました。「長崎さるく博」が集大成です、って言い切っていましたし、本音でそう思っていました。いま、62歳。自分でもいい加減にしろよと思いながら大阪の仕事を引き受けてしまった理由は、それが「大阪の仕事」だったからです。  私は大阪生まれで、大阪育ち。それも場末で生まれ育った根っからの庶民です。事務所は大阪にありますから、大阪でそれなりに儲けさせていただきました。御堂筋パレードでも毎年いくつかのフロートを企画して制作していました。食博でもなんかやっていました。オリンピック招致にもかなりのことを請負いました。そういえば、「大阪世界帆船まつり」というのが83年に大阪城築城400年を記念して実施されましたが、ポルトガルやアルゼンチンからも帆船がやってきて日本ではその後二度とない大きな帆船パレードでしたが、これの演出運営を引き受けたのがわが社の大型イベント事始めでした。こんなふうに大阪で棲息させていただきながら、私自身が大阪の大きな活性化イベントをプロデュースしたことは一度もないのです。和歌山や兵庫や愛媛や広島や、神戸や京都や長崎やと、近隣・地方ではずいぶん頑張ってきたのに、大阪ではお呼びがかからなかったのです。  そこへ、いまになって、突然「やってくれないか」ですから、迷いましたが、引き受けました。大阪で納得する仕事をひとつくらいやっておきたい、というところでしょう。しかも、その仕事が大阪のコミュニティ・ツーリズムの推進。つまり、大阪の風土文化による観光集客であり市民プライドの醸成です。「大阪は、YTT(吉本のお笑い、たこ焼き、タイガース)だけとちゃう。近松も西鶴も、吉兆もうどんすきもあるやろ。なんで文楽も成駒屋も観にゆかへんねん」と慨嘆していた私は、おそるおそる腰を上げました。「お前、引き時を忘れてんのとちゃうか」と言われそうだし「ここで失敗したら、いままでがパーやなあ」と長崎のときと同じことを考えました。でも、「やってみようか」と思う魅力が大阪にありました。「何とかせなあかん」という大義も見つけました。私の好きな某市の知識人に「あのコテコテの大阪のおばちゃんには来て欲しくない」という話を聞いたことがあります。ぜ、絶句です。この話、ほんまですよ。誤解も6階もされてるわ、大阪は。